菓子パンと担々麺

長文で書きたい思ったこと。19歳。

最近考えたこと、

 今年も例年と同様、五月病を拗らせてしばらく病んでいた。人付き合いはうまくいかない(相手型は何とも思ってないのだろうが、如何せん友達にそういう言葉を吐いてしまった自分に嫌気がさしてしまう。)し、家事も勉強も何にもやる気が起きない。唯一バイトだけはお金欲しさに一生懸命教材を作ったり勉強計画を立てたりして頑張っていたが。おまけに謎なタイミングで人と付き合ってしまって死にかけた。今回ばかりはメンクリも調べたし学生相談所に凸った。冷静に考えなくても病んでいる。

 私は親に甘やかされて育っている。勉強も手取り足取り教えてもらったし、ものも沢山買ってもらえたし服だって結構買ってもらえた。旅行も行ってたし趣味は制限された中でもそこそこやりたいことをやらせてもらえた。だから自分で何かを極めたことは特にないし、お金も結構稼いでるけどこれは周りの環境と学歴のおかげだと思う。すなわち自分で何もできないし空気も読めない、ちょっと世間と社会と学問について知っている根はお嬢なのだと思う。

 そういうふうに思われるのが嫌でバイト先ではテキパキ仕事をこなす人になろうと思って頑張ったし、カテキョ先の生徒には見栄を張っているし、友達の前では人生達観して病んでいるキャラやるし、恋人にはひとりで生きていけるって強がる。自分で何でもできるって示したくて。まるで子供のようだ。

 私は私のまま素直に生きることこそが幸せなのだと思う。でもかっこよくて綺麗で自分で自分の機嫌を取り教養もある素敵な人に憧れて目指して、それが結果愚かな自分であったとしてもそれは間違いなのだろうか。理想の自分像と現実の子供みたいな私とのギャップに嫌気がさしつつも生きている。

 結局人は生きたい自分に変われる可能性が良くも悪くも少ししかないし、なりたい自分になるためには普段からの習慣が大切なのだと思う。受験勉強以外の自己実現を獲得したい。それだけ。だから習慣を絶対に作ってみせる。絶対に。ありのままに生きるけど、変わりたいと思う気持ちもまたありのままなのだから。 

 

 

他人との付き合い方で気をつけること

マウントを取らない、相手の話の最中に自分の話を挟まない。相手の話を最後まで聞く。相手に何かをしてもらったとき、話を聞いてくれたとき、一緒に過ごしてくれたときには必ず感謝の気持ちを伝える。〇〇がいないとだめとかじゃなくて〇〇と一緒にいて楽しかったし誘ってもらえて嬉しいって必ずいう。相手に期待しない。相手に謝られた時はそういう風に考えてくれてありがとうとか、ちゃんと感謝の気持ちを伝える。

自戒

メンタルというか私のパフォを一定出力に保つために自分で必要と思うことを書いていく

・他人に期待しない。他人にべき論を押し付けない。自分も他人にべき論を押し付けられたくない。

・自分の機嫌は自分で取る。→コメダで作業する。海を見にいく。

・プチ贅沢じゃなくて、普段は適当に生きてここぞというときに金を使う。長期的に使うものはよく検討して、高い物を買う。

・日用品の不足は地味にストレスになるのでさっさと買う。

・お金に執着しない、食べ物に執着しない。

コンテンツの消費と浪費

 高校の時に読んだ現代文の文章でやたら記憶に残っているものの中に消費と浪費の違いについて説明したものがある。私たちは一般的に必要なものを買うことを消費、不必要なものを買うことを浪費と見なす。例えば主食の米を買うことは消費だが、深夜にコンビニでアイスを買うことは浪費と言えると思う。

 ところが、その文章では少し違う定義をしていた。文章の内容を正確には覚えてないので間違いがあるかもしれないがこのような感じだ。現代は消費社会であり、売り手は消費者にあの手この手で物を買わせようとする。バズったコスメや流行りの服、消費にはキリがない。しかし一方で浪費にはキリがある。好きな酒造の日本酒を定期購入したり、暇な時間に好きな場所でぼうっとしたり。現代はキリがない膨大な消費社会で人々は豊とは言えない。といった感じだ。

 私は今東京で暮らしている。東京は特に地方よりも消費社会としての性質が根強いと思われる。インスタを見てるとみんなが行ってる映えカフェに行きたくなるし、最近流行りの縄文人ベージュコーデも何が可愛いのかわからないけど流行っているからなんとなく欲しいし、そんなところだ。流石に最近飽きたけれども、東京に来て半年くらいはお上りさんの典型としてそう言うのを楽しんだ。

 そして私の趣味の一つにアニメがある。今ほどアニメやボカロが一般的ではなかった6年前くらいから私はそう言うカルチャーが好きで、よく友達と話をしていた。カゲプロにハマって、ハイキューにハマったし、ボカロはじんさんとNERUさんにハマった。歌詞やストーリーを考察していろいろ描いていたと思う。ただの黒歴史に過ぎないが。

 しかし最近はこの趣味も消費している気がして嫌気が差しつつある。アニメの方はまだ自分が興味を持った作品を見ているが、ゲームなんか特にそうだ。麻雀にはまだ面白さを感じるが、流行ってると言う理由で始めたツイステとウマ娘は速攻で飽きてしまった。音ゲーは手を動かすので楽しいからやっている。

 と言うように、大学に入ってから趣味や見聞を自分なりに広めようとした結果、コンテンツの消費に終わったと言うことにやっとこさ気づいたということである。消費にかける金は死ぬほど虚無である。自分で稼いだお金が無駄なことに消えたのはとても悲しい。しかし過去と他人は変えられないものである。とにかく失敗を生かすことが大事だと思われる。のでこれから何をしようかだけ書いておこうと思う。

 1,映えカフェは女子との遊びの最終手段だしそう言うところに行かないと話できない人間とは行かない。ファミレスか宅飲みで仲良くできる人と仲良くする。

   2,流行りの服は買わない。好きな服屋でベーシックなアイテムを買う。

   3, ソシャゲは飽きたらやめる。

 4,目先の損得にとらわれずに長期的な視点を持つ。

あとは生産的な趣味が欲しい、これはずっと言っている。

 

 

いきなり社会に出ていくのは怖い。

私のミス一つで人の人生が変わる。どの仕事もそういった側面はあると思うけど、私が今目指してる職業は生死に直結していると思う。責任重大すぎて死んじゃう。

だから責任の一端を持つ仕事でもやって社会に適合する練習をしようと思ってバイトに出ている。もちろん生活費が必要だと言うのもあるけど、恵まれたことにバイト辞めれば仕送りがもらえるはずだから必死かと言われるとそうでもない。

私して責任から逃げそうになって、それじゃダメだと思って、また戻ることを繰り返してく。辛いし、無能すぎて死にたくなるけど、このままじゃ社会に適合できなくて、お金もらえなくなってそれこそ本当に死んじゃうと思ってこころがぐるぐるする。

 自分のできることとできないことを見極めるためにもいろいろ挑戦したいけどいろいろ苦しくて泣いちゃいそうになる。

 でも、自分が知ってることと知っていないことの境界線を引いて現状把握して次のステージに進んでみなければいけない。辛いけど、自己研鑽を辞めた次の日には人間堕落してしまう。

 

 

思うこと衝動

 教育とはなぜあるのか、について私が思うところを書きたい。子供は視野が狭い。これは私が決して子供を貶しているとかそういうことではなくて、私が過去の私を振り返って感じたことである。というか成長するとは視野が広がること、勉強するとは視野を広げる一つの手段を行使することだ。子供がやらかしても、それを上手いように導き、そしてこの後の人生で失敗しないようにちょっとばかり人生経験の広い周りの大人が教えてあげること、それが教育だと思う。今ある教科書とか、義務教育だとかはそういうのの積み重ねである。繰り返しになるが世界を広げて、人生の知恵を教える、それが教育だと考える。父は素直であれとよく言った。それは、知恵の浅い私が狭い世界に囚われ大人になって後悔しないようにということだと思う。

 

 しかし、教育と価値観の押し付けを混同してはならない。親も人間である以上、それを区別することは困難である。というか親の価値観を反映しない子供なんて存在しない。私が私の親元で芸術家になることなんて無理だし、スポーツ選手になることも無理だ。せいぜい会社員か、勉強でなんとかなる専門職くらいにしかなれない。今更私は0歳の時の人生選択を間違えなければアイドルになれたのにとかいうことは絶対にない。普通に諦めている。そもそも選択肢にすらない。親の親なりに偏った価値観のもと、今の学部に進んだことは一つも後悔していない。将来どんな研究をしようか、どういう専門を専攻しようか、モチベだけはワクワクしている。でも親の価値観の押し付けの結果困ったことはいくらでもある。

 

 そのうちの一つに自己肯定感の異様な低さがある。わたしは自分を大切にできない。根本的に。小さい頃から勉強するために欲望を抑えることを親に是とされてきた。人付き合いを選ばされて我慢して、勉強した。スマホの時間を制限して、勉強した。おしゃれに対する欲求を我慢して勉強した。好きな人ができかかった時も、その気持ちを抑えて勉強した。欲望の赴くままに行動している節があったら、弛んでいると言って諌められた。五時間くらいの説教なんて沙汰。多少のコントロールは必要だったと思う。それはそう。でも、そのおかげで欲望を我慢することは美しいことだという価値観が刷り込まれた。食欲に従う自分は情けない。欲の赴くまま服を買い漁りそうになる(実際はしてない)は情けない。寂しさの赴くままに誰かに連絡する自分は情けない。結果異性に告白されても、「私じゃなくてもいいんでしょ?そこに女がいれば」とか「私なんかでいいのか」とか口をついて出てくる。それが異性を怒らせたこともある。そりゃそうだ。自分が好きな女を嫌いな人間なんて許せない。(この一連の発言が自己肯定感の低さの表れだってわかったのは恋愛小説を読んだ時だった。無論告白された当時は気付く由もない。)そしてめちゃくちゃケチになった。服は思うように買えないし、髪もお金がかかるからって染めない。

 

 自己肯定感の低さは何を引き起こすのか、それは周りの人間を大切にできないことだ。こんなごみみたいな自分が抱えている人間なんてクズだって、そういうふうに思い始める。だからせっかく仲良くしてくれた友人の悪口も平気で言える。告白された異性は寂しさの埋め合わせに使った後、依存して嫌いになって振ってしまう。というか自己肯定感低すぎて男なら誰でもいいと半分本気で思っている。

 

 (続かない)

都心は久々の雨

 日記を書いていると自分の文章の癖がだんだんわかってくる。このブログを見返すと、いかにも私という感じの言い回しがよく見える。言葉というのは不思議だ。ここに書いている言葉に書いてある言葉には何一つ自分で発案した語彙などないというのに、その取り入れ方によって人の言葉に特徴が生まれるのだから。

 人は人に依存して生きている。どれだけ孤高の人も多分だれともしゃべらずに生きている訳ではない、と思う。以前Twitterに流れてきた言葉に、自立するとは依存先を増やすことというものがあった。確かにそうだと思う。友達に私は依存体質だと言われたことがある。確かにそうだと思う。携帯は一日中手放せないし、誰かとラインが続いていないと死にたくなる。でも今更この体質を変えることができるとは思わない。できるならば依存先を増やしたい。そしてもう変な男に引っかかりたくない。

 毎日生活と大学の課題をこなしているだけで一日が終わっていく。目まぐるしい日々の中で高校時代ほど将来のことを考えることは無くなった。しかし、入学してから今まで自分は何をできたのだろうと思い始めた。当然の如く何もできていないので、とりあえず英語と若干の中国語と生物とプログラミングとか頑張りたいと思う。

 それから、生活力もあげたいなと思う。いい加減風呂に入るのを渋り、洗い物を溜め込み、掃除機を全然かけない暮らしから脱出したい。本当は素敵なインテリアがある家とかにすみたいんだけども、この狭い部屋じゃとてもじゃないけど難しい。今度披露目の部屋に引っ越すことを期待して、とりあえずは家をすっきりと片付けたい。あとは料理のレパートリーを増やしたい。それからメイクとかファッションとか髪型とかももっと良くなりたい。