菓子パンと担々麺

長文で書きたい思ったこと。19歳。

コンテンツの消費と浪費

 高校の時に読んだ現代文の文章でやたら記憶に残っているものの中に消費と浪費の違いについて説明したものがある。私たちは一般的に必要なものを買うことを消費、不必要なものを買うことを浪費と見なす。例えば主食の米を買うことは消費だが、深夜にコンビニでアイスを買うことは浪費と言えると思う。

 ところが、その文章では少し違う定義をしていた。文章の内容を正確には覚えてないので間違いがあるかもしれないがこのような感じだ。現代は消費社会であり、売り手は消費者にあの手この手で物を買わせようとする。バズったコスメや流行りの服、消費にはキリがない。しかし一方で浪費にはキリがある。好きな酒造の日本酒を定期購入したり、暇な時間に好きな場所でぼうっとしたり。現代はキリがない膨大な消費社会で人々は豊とは言えない。といった感じだ。

 私は今東京で暮らしている。東京は特に地方よりも消費社会としての性質が根強いと思われる。インスタを見てるとみんなが行ってる映えカフェに行きたくなるし、最近流行りの縄文人ベージュコーデも何が可愛いのかわからないけど流行っているからなんとなく欲しいし、そんなところだ。流石に最近飽きたけれども、東京に来て半年くらいはお上りさんの典型としてそう言うのを楽しんだ。

 そして私の趣味の一つにアニメがある。今ほどアニメやボカロが一般的ではなかった6年前くらいから私はそう言うカルチャーが好きで、よく友達と話をしていた。カゲプロにハマって、ハイキューにハマったし、ボカロはじんさんとNERUさんにハマった。歌詞やストーリーを考察していろいろ描いていたと思う。ただの黒歴史に過ぎないが。

 しかし最近はこの趣味も消費している気がして嫌気が差しつつある。アニメの方はまだ自分が興味を持った作品を見ているが、ゲームなんか特にそうだ。麻雀にはまだ面白さを感じるが、流行ってると言う理由で始めたツイステとウマ娘は速攻で飽きてしまった。音ゲーは手を動かすので楽しいからやっている。

 と言うように、大学に入ってから趣味や見聞を自分なりに広めようとした結果、コンテンツの消費に終わったと言うことにやっとこさ気づいたということである。消費にかける金は死ぬほど虚無である。自分で稼いだお金が無駄なことに消えたのはとても悲しい。しかし過去と他人は変えられないものである。とにかく失敗を生かすことが大事だと思われる。のでこれから何をしようかだけ書いておこうと思う。

 1,映えカフェは女子との遊びの最終手段だしそう言うところに行かないと話できない人間とは行かない。ファミレスか宅飲みで仲良くできる人と仲良くする。

   2,流行りの服は買わない。好きな服屋でベーシックなアイテムを買う。

   3, ソシャゲは飽きたらやめる。

 4,目先の損得にとらわれずに長期的な視点を持つ。

あとは生産的な趣味が欲しい、これはずっと言っている。