菓子パンと担々麺

長文で書きたい思ったこと。19歳。

思うこと衝動

 教育とはなぜあるのか、について私が思うところを書きたい。子供は視野が狭い。これは私が決して子供を貶しているとかそういうことではなくて、私が過去の私を振り返って感じたことである。というか成長するとは視野が広がること、勉強するとは視野を広げる一つの手段を行使することだ。子供がやらかしても、それを上手いように導き、そしてこの後の人生で失敗しないようにちょっとばかり人生経験の広い周りの大人が教えてあげること、それが教育だと思う。今ある教科書とか、義務教育だとかはそういうのの積み重ねである。繰り返しになるが世界を広げて、人生の知恵を教える、それが教育だと考える。父は素直であれとよく言った。それは、知恵の浅い私が狭い世界に囚われ大人になって後悔しないようにということだと思う。

 

 しかし、教育と価値観の押し付けを混同してはならない。親も人間である以上、それを区別することは困難である。というか親の価値観を反映しない子供なんて存在しない。私が私の親元で芸術家になることなんて無理だし、スポーツ選手になることも無理だ。せいぜい会社員か、勉強でなんとかなる専門職くらいにしかなれない。今更私は0歳の時の人生選択を間違えなければアイドルになれたのにとかいうことは絶対にない。普通に諦めている。そもそも選択肢にすらない。親の親なりに偏った価値観のもと、今の学部に進んだことは一つも後悔していない。将来どんな研究をしようか、どういう専門を専攻しようか、モチベだけはワクワクしている。でも親の価値観の押し付けの結果困ったことはいくらでもある。

 

 そのうちの一つに自己肯定感の異様な低さがある。わたしは自分を大切にできない。根本的に。小さい頃から勉強するために欲望を抑えることを親に是とされてきた。人付き合いを選ばされて我慢して、勉強した。スマホの時間を制限して、勉強した。おしゃれに対する欲求を我慢して勉強した。好きな人ができかかった時も、その気持ちを抑えて勉強した。欲望の赴くままに行動している節があったら、弛んでいると言って諌められた。五時間くらいの説教なんて沙汰。多少のコントロールは必要だったと思う。それはそう。でも、そのおかげで欲望を我慢することは美しいことだという価値観が刷り込まれた。食欲に従う自分は情けない。欲の赴くまま服を買い漁りそうになる(実際はしてない)は情けない。寂しさの赴くままに誰かに連絡する自分は情けない。結果異性に告白されても、「私じゃなくてもいいんでしょ?そこに女がいれば」とか「私なんかでいいのか」とか口をついて出てくる。それが異性を怒らせたこともある。そりゃそうだ。自分が好きな女を嫌いな人間なんて許せない。(この一連の発言が自己肯定感の低さの表れだってわかったのは恋愛小説を読んだ時だった。無論告白された当時は気付く由もない。)そしてめちゃくちゃケチになった。服は思うように買えないし、髪もお金がかかるからって染めない。

 

 自己肯定感の低さは何を引き起こすのか、それは周りの人間を大切にできないことだ。こんなごみみたいな自分が抱えている人間なんてクズだって、そういうふうに思い始める。だからせっかく仲良くしてくれた友人の悪口も平気で言える。告白された異性は寂しさの埋め合わせに使った後、依存して嫌いになって振ってしまう。というか自己肯定感低すぎて男なら誰でもいいと半分本気で思っている。

 

 (続かない)