自我とは
大学生活は高校生活よりも各人各様になりやすいと思う。
昨日、高校同期と会った。彼女は某私立大学のテニスサークルに所属し、いわゆる”陽キャ”な大学生活を送っている。サークルが忙しく、また同期とも良く遊んでいるらしい。(それに対して私は断じて陽キャではない。陰キャである。休日は一人でゲームとアニメに明け暮れるタイプのヲタクである。)
しかし彼女は遊ぶだけの大学生活に嫌気がさし始めたと言っていた。確かに彼女は社交的で、常に周りに人がいる子だったけど(むしろなぜ彼女が私と仲良くしているかがよくわからない。)、根は真面目だったと思う。わたしのニート生活と足して2で割れればいいのにねと笑っていた。
かく言うわたしもニート生活に嫌気がさし始めて、友達と遊んだり、家庭教師を始めたりしている。しかしそれでも虚しさは消えない。どうしてなんだろう。
いや、原因はだいたいわかっている。大学に入ってから勉強で成果を出すことが難しくなったから。流石に高校までに全教科高得点は無理だし、何かひとつで秀でられるところを見つけられればいいがそれが見つからない。それは多分医学でなくてはならないのだろうけど、医学はまだ始まらないし…生物でも頑張るかと思うが生物も良くわからない。得意だった英語に対する自信もどっか行った。
やっぱり大学一年生っていうのはこれまで高校時代に仮に確立して置いてあったアイデンティティっぽい何かを一回壊して再構築する時期ではないかと思う。幸い私は一年の間はあくせく成績をとる必要はない。(単位は取らなくてはならないが。)だからゆっくりと勉強しながらいろいろ考えていこうと思う。このブログもその一環にできたら嬉しい。
ちょっと思ったこと
最近、友人から相談を受けた。友人は私立の大学に通っている。彼女は受験生時代、その学校を第一志望に据え、見事に合格して行った。これを仮に友人Aしよう。私は国立の大学に通っていて、彼女の別の友人Bは私の行っている大学を第一志望にして現在浪人中である。
友人Bは今、滑り止めに友人Aの行く私立大学を考えている。そしてBは現在Aの行く大学について聞いた際、Aの大学のことを馬鹿にしたそうだ。それにAは怒っていた。AはBの友人としてBの相談によく乗っていた。でも今はもう応援する気はないそうだ。
私が真っ当な人間ならBが悪いと糾弾することは容易だったのだと思う。でもAの相談に対して、私は馬鹿にされたら辛いよねとしか言えなかった。理由の一つに、一年前の私はBと全く同じ状況、心理状態だったことがある。私も一年前はAの通う大学を滑り止めにし、今の大学を第一志望にしていた。(学部は違う。)口には出さなかったものの、Aの行く私大に行ってたまるかと内心馬鹿にしながら受験勉強をしていた。
大学生活の半年を迎え、私は一年前の自分の視野がとても低かったことを思い知った。一年前は、偏差値でしか大学をみていなかった。心のどこかでは大学は偏差値じゃない、大学で何を勉強するかが大事だとわかっていたものの、いざ大学選びの時となれば、偏差値で決めていた。(もしかしたらネームバリューも決定要因の一つだったと思う。しかしこれは結構偏差値と相関するものなので、実質同じと言えるが。)滑り止めのAが通う大学も、実際偏差値で選んで、受けて、悲しいことに補欠合格をいただいた。
受験生の罠として、自分の第一志望より偏差値が低いところに行くのはプライドが許さなくなってしまう。特に私立なら尚更そうだろう。そして実際滑り止めの私立大学に進学しても、プライドが邪魔をして元々の第一志望の国立を再受験するという話もよく聞く。
生存バイアスと言われても致し方ないとは思う。偏差値で大学を見るのは偏っていると気づいたのは今の大学に通ってからだったし、もし自分が私立大学に通ってたらこうは言えないと思うので。でも私は受験生時代の自分に言いたい。大学選びはもっと視野を広く取れと。
夏学期終わり!(実は私が今まで夏学期だと思っていたものは春学期のことだったらしい)
とタイトルを書きましたが、学期末レポートの進捗が大変怪しくて泣いています。あと、試験も盛大に爆死しました。
とりあえず精神を病まずに春学期を乗り切れたことに祝杯をあげたいと思います。
反省
最近病んでて辛いんですが、必要な努力をしてから病むというマインドで行きたいと思います。
反省と将来
反省
・演習量が足りないが故に死亡していることがよくわかったので、これからは毎週講義分の演習くらいは積むようにしたい。(任意の理系教科に対して)
・秋学期は授業を切らない。
将来
・人間、いろいろなことを諦めて目の前のことに必死になっているうちに人生って終わっていくのかもしれないと思いました。無計画に生きれる人の存在が今まで信じられなかったんですけど、むしろ計画性を持って生きることのできる人の方が少ないですね。